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『パンダと爆買い』第2章 2度目の留学 ―おまけ― カニは食べ物か!?

第2章 2度目の留学
     ―おまけ― カニは食べ物か!? 

 海外を旅するとき楽しみなのは、その土地ならではの料理です。が、そこ
で一定期間暮らすなど、滞在期間が長ければ長くなるほど悩まされるのも
食の問題。なにしろ、生きていくためには、食べないわけにはいきません
から。
 北京の食生活で困ったのは、油が多いことと、肉が中心で、魚があまり食べ
られないことでした。中華料理は好きですし、肉料理も好きです。が、魚も食
べられるからこそ、肉料理もおいしく食べられる。毎日肉、肉……では、胃が
疲れます。しかも、食べ慣れない羊肉が留学生食堂の水餃子に入っていた
りして、特に暑い日はにおいに圧倒されてしまいました。
 当時魚といえば、油で揚げた川魚のあんかけ料理。日本料理店に行けば、
刺身もありましたが、あまりにも高くて、私のような自費留学生はめったに
行けませんでした。休暇に沿海部を旅したときは、海鮮にありつけるのが
大きな楽しみでしたね。逆に、食で最も苦労したのが、シルクロードの旅の
ときです。
 中国は土地が広いので、食文化も地域によって本当に異なります。それを
強く感じる出来事が、大阪の専門学校で留学生に日本語を教えていたとき
にありました。
 ある週明けの授業のとき、上海出身の留学生が、「ねえ先生、聞いて聞い
て。週末みんなで市場に行ったんだけど、李君ったら、カニを知らなかった
んだよ!」と。李君は、内蒙古出身の留学生。聞けば、カニを食べたことが
ないばかりか、カニの存在自体を知らなかったというのです。市場でカニを
指さし、「これ、食べるの?」と他の留学生に聞いたのだそうです。カニを
はじめ海鮮を食べ慣れている上海の学生は、本当にびっくりしたようでした。
 魚といえば、もうひとつ。中国内陸部の寧夏回族自治区出身の先生と、
大阪の府立高校で一緒に仕事をしたことがあります。二人で雑談している
うちに、魚の話題になり、この先生は「日本は海の魚が多いけど、くさくて
食べられない」と言うのです。
 えっ!? 海の魚がくさい?
「川魚のほうが、くせがあるのに」と私が言うと、「いえ、川魚はくさくない」と。
育った土地によって、食べ物のイメージも、ずいぶん変わるものなのですね。
 のちに韓国に住んだときは、海鮮豊富で、しかも海藻類も豊富で、本当に
助かりました。

*この記事は、以前ブログにアップした記事と、一部内容が重複します。

『パンダと爆買い』第2章 2度目の留学 香港での衝撃

第2章 2度目の留学
      香港での衝撃

 外国に友達がいるとうれしいけれど、悩ましいのがお土産選び。日本人に
人気の定番土産でも、外国人に同じものを渡しても喜ばれないときもありま
す。
 たとえば、家族の転勤で韓国に住んでいたとき聞いた話ですが、韓国出張
で日本人が土産に持って来るせんべいは、いつまでも置かれたままで、結局
韓国人スタッフでなく日本人駐在員が食べる、というふうに。中にはせんべい
が好きな人もいるかもしれませんが。
同じせんべいでも、海老せんべいは歓迎、と聞いたので、しばらくは一時帰
国の折に手土産として買っていました。
 1983年、最初の訪中に持って行ったものは何だったかな? かすかな記憶
ですが、ストッキングとボールペンだったと思います。大学の先生の紹介で、
留学先で何人かの中国人と会うことになっていたので、留学経験のある先
輩に何を持って行ったらいいか尋ねたところ、たしか「ストッキングとボール
ペン」という答えが返ってきたのです。
 えっ!? と思いました。日本ではまず手土産で持って行くようなものでは
ないですし。これでいいの? と。でも、文化事情も違うだろうから、アドバイス
通りにしていたらいいのかな、と準備しました。
 その後、日本のある団体を通じて文通相手を探し、文通していた中国人
には、日本語がとても上手だったので、日本の本をお土産にしました。
山口百恵のエッセイでした。それはそれは大変な喜びようでした。
 今は、中国人に人気のある日本の有名人は実に多様ですけれど、当時は
情報が限られていたからか、割合固定されていました。中国で放映された
日本の映画やドラマの影響が、やはり大きかったです。山口百恵、高倉健、
中野良子、おしん、寅さん。
洗濯機についての文のところで、日本のメーカー名を中国人からよく聞かさ
れたと書きましたが、それに負けないくらいよく耳にしたのが、日本の俳優
の名前や映画、ドラマのタイトルです。あとは、政治家ですね。特に、田中
角栄の名は、何度も聞きました。
 中国語は、日本人の名前や地名を、中国語の発音でそのまま読むため、
一度慣れると大丈夫なのですけれど、初めて聞くときは、いつも、はあ!?
という感じで、困惑しました。割と最近では、「トゥンユエンチーシアン」と聞い
て、??? ぽかんとしていたら、漢字で書いてくれたので、判明。「藤原紀
香」でした。シャンコウバイフイ(山口百恵)だったら、すぐわかるんだろうけど
なあ。でも今の若い中国人の口から、山口百恵の名前が出てきたことは、
私が出会った人では一人もいないです。
 お土産の話からそれてしまいましたが、話を戻すと、80年代留学していた
ころは、それだけ生活用品の普及度が日中で異なっていたといえるでしょう。
贅沢さえしなければ、当時中国で売られていたものでも十分生活できました。
が、日本での生活からいきなりタイムスリップしたような生活となり、日本では
当たり前のように手に入っていたものも手に入らなくなり、知らない間にストレ
スがたまっていきました。自分では全く自覚がなかったのですが、1985~86
年1年間留学したとき、冬休みに香港へ旅行に行って、そのストレスが大きい
ことを感じました。
 実に衝撃でしたね。きらびやかな夜景、デパートや繁華街に溢れるモノ、
モノ、きれいなレストランなどなど。北京でなかなか手に入らない洋菓子から
プラスチック製の収納用品まで、とても手荷物では持ちきれないほど買い物
をし、郵送しました。
 買い物依存症でもないし、ものが多ければ多いほど幸せだとも思いません。
が、生きていく上で、ある程度物質的に充足していたほうがストレスは少ない
かもしれない、と感じました。断捨離やミニマリストという言葉も普及しました
が、そのほうが引っ越しは楽だなあと思いながら、そういうライフスタイルに
あまり魅力を感じないのは、80年代の留学生活で物質的に不便な思いを
したことが関係あるかもしれません。
 香港は、初訪問があまりにも衝撃的で、私にとっては地上の天国に思える
くらいすばらしい場所となりました。日本に帰国してからも、そのキラキラした
憧れの香港を、期待いっぱいの心で再訪しました。ところが、初めてのときの
ような感動はあまりなく、あれっどうしてだろう!? と、我ながらショックでし
た。
 初香港が感動的だったのは、やはり北京で数カ月生活した上で行ったから
だったんだ、とそのときわかりました。

『パンダと爆買い』第2章 2度目の留学 電話と電報

第2章 2度目の留学
      電話と電報

 今、日本で携帯電話をごく自然に操作する中国人観光客を見ると、つい
感心してしまいます。昔の中国を知らなければ、何も不思議でない光景です
が。それは、中国人がどうこうというよりは、80年代の留学時、私自身通信
手段が不便で苦労した経験があるからでしょう。
 2016年、すっかりさびてしまった中国語の聞き取り能力を少しでも取り戻す
ため、『街なかの中国語 Part3』(東方書店)で聞き取りの練習を始めました。
その中に、80年代留学時の電話事情を思い出すような文がありました。文は
私の留学より前の時期の電話事情についてでした。ある教授いわく、

  改革開放前の1975年、北京から江西省の実家に電話をかけるのに大変
 な苦労をした。個人の家に電話なんてない時代だった。勤め先には電話は
 あったものの、長距離電話はかけられなかったので、北京電信大楼まで出
 かけていった。しかし電話をかける人は多く、順番待ち。やっと自分の番が
 回ってきたと思ったら、なかなか電話が通じない。通じたあとも、雑音が
 ひどく、とても疲れた。

と。私が留学したのは、これよりあとですが、電話事情はこの文と大きな変化
はなかったように思います。私の中国人の友人は、電話は職場のものを使っ
ていました。私も、中国人の自宅に電話をかけた覚えがないですね。
 長距離電話をかけるのが大変なのも、同じでした。中国国内もそうでしたが、
日本に電話をかけるのもひと苦労。留学生寮には、一応電話はあったものの、
国際電話はかけられません。わざわざホテルまで出かけて行き、順番待ち。
人が少ないときや、かけてから比較的早く電話がつながったときは、本当に
ラッキーでしたね。
 2001年の大連短期留学では、部屋に電話があり、日本へも直接かけること
ができ、驚いたものです。

 80年代は電話をかけるのも困難だったので、中国の地方に住む友人と連絡
を取る際、時間に余裕があるときは手紙、余裕がないときは電報を打ちました。
電報って、当時日本では、さすがに携帯電話はまだ普及していなかったものの、
祝電や弔電以外ではあまり使う機会がなかったのではないでしょうか。
 電報を打つのは面倒ではあったけれど、いい経験になりましたね。なるべく
安上がりにするため、文字数のより少ない中国語を一生懸命考えました。
「上海に到着する」は「抵沪」(ティーフー)だよ、というふうに、中国人からも教わ
りました。この「沪」や「榕」(ロン 福建省福州の別称)のように、地名に別称が
あることを、電報を打つことで初めて知りました。こういう別称には、中国語の
文章を読んでいるとたまに遭遇するので、電報で別称を覚えたことが役に立ち
ました。 
 一方、上述の聞き取りのテキストには、「换手机」(ホアン ショウチ― 携帯
電話の買い替え)という文もあります。何度も携帯電話を買い替えてきた男性
が、その理由を語るという内容です。国内の長距離電話をかけるのにも苦労
した時代と、何とも対照的です。
 もっとも、私が幼いころも家に電話はなかったし、学生時代家に電話は1台
で、友人からの電話も親がつないでいましたから、日本の通信事情もずいぶん
変わりました。

*この文は、以前ブログに書いた記事と重複します。

『パンダと爆買い』第2章 2度目の留学 貴重なビニール袋 続き

第2章 2度目の留学
      貴重なビニール袋 続き

 留学後何年も経ってから中国を訪れたときは、道端にファストフードを食べ
たあとのゴミと、ビニール袋のゴミがたくさん捨てられ、ふわふわと浮いている
のを見、ゴミひとつとっても中国は変わったなあと実感しました。
 外食に目を向けてみると、留学当時はファストフード店なし、カフェなし。
一人でぶらっと入って食事するというような環境ではありませんでした。ごく
普通の食堂は、衛生面でちょっとこわくて入りづらく、自炊せず一人で簡単に
すませるときは、道端で売っている焼き芋を買って食べたり、果物ですませた
りしていました。留学してそんなに経っていないころは、夜寮で一人バナナを
食べながら、涙がポロリ。日本では、親が食事を用意してくれるのは当たり前
だったけれど、有難いことなのだなあと思いました。
 90年代に旅行で上海に行き、ケンタッキーフライドチキンを食べたときは、
感慨深かったですね。ファストフードが特別好きなわけではないのに、今留学
したらもっと楽だっただろうなあ、なんて。

 食以外に、日々の生活で必須のことといえば、洗濯。寮には、洗濯機なんて
贅沢なものはありません。企業の派遣留学生や一部の金持ち留学生が持っ
ているだけでした。それだって、よく故障して困ると聞いたことがあります。
 一年間、服は手洗いしました。夏はまだいいけれど、冬は厚地の服が多く、
大変でした。幸い、乾燥していたので、どんなに厚地のものでも、部屋干しで
すぐにかわきました。洗濯は実に面倒で、もう二度と毎日手洗いなんてしたく
ないけれど、手で絞った衣服を部屋に吊るしていたのが加湿器的な役割を
果たし、喉にはよかったかもしれません。どんなに面倒で不便なことでも、
必ず長所はあるものです。
 2001年夏、大連の大学に短期留学したときは、共同ではありますが、寮に
洗濯機がありました。各部屋にシャワーもついていたし、80年代の留学と
比べ、だいぶ便利になりました。ただ、2001年の留学のときも、断水は時々
あったし、水質もよくなかったので、あまり変わらないこともあるのだなあ、と。
 ところで、洗濯機から思い出すのは、当時の家電製品の状況です。とにか
く、日本製がいい! という評判でした。中国人の家に遊びに行くと、日本製
の家電がどれくらい家にあるか、ひとつひとつ自慢げに説明してくれました。
 初対面の中国人との会話でも、私が日本人だとわかると、「ソニー、
シャープ、東芝……」というふうに、日本のメーカーの名前が次々と挙がる
ことが少なくありませんでした。まだ会話がそんなに流暢でなかったころ、
貴重な会話のネタだったので、日本のメーカーの中国名を必死に覚えまし
た。海尔(ハイアール)のような中国のメーカー名が話題になる時代が来る
とは、当時は想像もつきませんでした。

『パンダと爆買い』第2章 2度目の留学 貴重なビニール袋

第2章 2度目の留学
      貴重なビニール袋

 日々の生活というのは、地味で目立たないけれど、文化や歴史を見る上で
欠かせない視点です。私は中国人家庭で育ったのではないし、1985年秋
から一年間暮らしたといっても、一留学生としての体験にすぎません。
中国の奥深いところまでは、見えていなかったかもしれない。それでも、当時
の留学生活から見えてくる中国というものがあります。それと今を比べると、
中国が如何に変わったかがわかります。
 「食」という面から当時を振り返ってみましょう。といっても、グルメの話では
ないですが。
 食事は、留学生食堂でしていました。が、油っこいし、メニューも多様では
ないので、食堂で食べ続けるのがしんどくなりました。夢におひたしが出て
きてしまうほど、あっさりしたものに飢えていました。
 自炊したい! でも留学生寮には、キッチンがありません。そこで、電気
コンロや調理器具を買ってきて、自炊を始めました。流し台は部屋にありま
せんから、共同の洗面所で。不便だったけれど、和食が食べられるのなら
何でもありませんでした。
 食材は、近所に日本のスーパーのようなものなんてありませんから、
大学近くの市場で調達。市場では、ほしい野菜が、一年中売っているわけ
ではありません。最初は困ったけれど、じきに、あるもので作るしかないと
割り切るようになりました。今、買い物に行けないとき、冷蔵庫にあるもので
何とかメニューを考えて料理するのが苦にならないのも、あのころ鍛えられ
たおかげです。
 市場の野菜は大きさも不揃いで、曲がっていて、見た目は不細工。でも、
味はとてもよかったのです。幼いころ食べたトマトやナスの味でした。日本
では、もうこういう太陽の恵みをたっぷり受けてできた野菜ってないなあ、
なつかしいなあと思いながら食べました。今思うと、誰かの歓送迎会で
食べた料理や、年配の人にごちそうになった高級料理よりも、美味で印象
に残るものでした。
 留学からだいぶ経ち、久しぶりに訪中したとき、スーパーに並ぶ形のいい
野菜を見、中国の野菜も日本のように味が落ちてしまうのかな、とちょっと
さびしさを覚えました。経済が発達する、暮らしがよくなるとは、こういうこと
なのか、と。
 市場での買い物で、最初不便だったのが、袋に入れてくれないことでした。
卵もケースに入っていないので、割れてしまいそうで。しかたないので、卵用
のケースを準備して行きました。もやしのように、手さげ袋に他のものと一緒
に入れられないようなものも、袋入りで売っていません。ビニール袋に入れ
てほしいと頼んだら、ずいぶん高い袋代を要求されました。
 ビニール袋、本当に貴重だったのですね。そんな感じだったので、日本から
持って行ったビニール袋が宝物のようで、何度も洗って繰り返し使いました。
今でもビニール袋をついためてしまうのは、留学時の経験というかトラウマに
よるものです。おそらく日本では、私の親世代くらいの人の習慣でしょう。

今回はここまで。続きはまた次に!(^^)!

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プロフィール

はこ

Author:はこ
2011年3月~2014年3月の3年間韓国で生活。韓国滞在中の2013年2月に「もっともっと韓国」開始、完全帰国後も大阪からしばらくの間韓国情報を中心に発信してきました。が、帰国後日本、中国語文化圏の情報が増えたこともあり、タイトルを「もっともっとアジア」にしました。より多様な内容で進めていきますので、今後ともよろしくお願いします!
拙著『不思議がいっぱい韓国』もよろしくお願いします!

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