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『パンダと爆買い』第3章 社会的距離 友達になれない

第3章 社会的距離
      友達になれない

 ここまで、中国人の友達、友人、と文中に書くことがありましたが、正直、
80年代の留学で本当の友達を作るのは、困難でした。
 文通クラブをきっかけに知り合った中国人、汽車の中など、どこかでたま
たま声をかけられ、交流するようになった中国人、親しくなった学校の先生
……結局、当時知り合って、以後長いつき合いをしている相手は、残念なが
ら一人もいません。90年代に日本で知り合った中国人留学生も、当時は親
しくつき合っていたのに、今も交流のある人はいません。なかなか会えない
けれど、ずっとつき合いのある人は、90年代私が香港の時事週刊誌に投稿
した文を目にし、出版社経由で手紙をくれた香港の友人と、あとは2000年
以降にソウルなどで知り合った中国人です。
 そもそも、日本人同士だって、住居が離れたり何だかだで、音信不通に
なってしまうことも少なくない。ましてや外国人となると、今どこに住んでいる
のかも、無事生きているのかもわからないくらい、疎遠になってしまいます。
つき合いを長く続けること自体、難しいのです。だから、若いころの留学で
知り合った中国人と、今交流がないのも無理はありません。
 でも、友達になれそうでなかなかなれなかった理由が、やはりあったので
す。ただ単に、言葉や文化の違いからという理由ではない何かが。中国語
は大学1年のとき始め、韓国語は46歳のとき開始。中国人とのつき合いの
ほうがずっと長いのに、今の私は、継続して連絡を取り合い、行き来してい
る外国人の友達は、韓国人のほうが多いのです。そこにヒントがあるような
気がします。そしてそれは、相性の問題というよりは、他の部分にありそう
です。
 80年代に中国人との壁を感じたことは、主に二つ。ひとつは、中国人と
外国人の距離が、社会的にあったということです。83年の最初の留学のと
き、渡航前に大学の先生から注意されたのは、街中で堂々と中国人の知
り合いと会わないように気をつけなさい、ということでした。家を訪ねるとき
も、周囲に見られないよう、こっそり行きなさい、と。
 外国人と親しいと、スパイ!?
 スパイといえば、こんな話を聞きました。北京語言学院を退職したある先生
が、90年代日本で数年間中国語を教えていたので、個人レッスンで習いに
行っていたときのことです。私が、80年代の留学で、中国人と堂々とつき合い
にくかったという話をしたら、その先生は、学校の教員宿舎でのスパイ探しの
話を聞かせてくれました。なんでも、スパイ探しの仕事を任されている学校
職員がいて、教員宿舎を密かに見回りしていたのだそうです。そしたら、よく
「カチカチカチカチ」と音のする家があったと。きっと外国に暗号でも送ってい
るに違いない、よし捕まえなければ! と捜査に入ったら、カチカチという音は、
英語の先生の自宅で、英文タイプを打つ音だったとか。
 どこまで本当かはわかりませんが、私自身も、中国人の友人との交流を、
もっと控えるよう学校から注意されたことがあります。また、留学生宿舎の
女性職員の中に、愛想がよくていつも留学生にかわいがられている子がいた
のですが、ある日突然いなくなっていたということもありました。正確な理由は
わかりませんが、留学生によくしてもらっていたのが、上司は気に食わなかっ
たみたいで、辞めさせられたか他の部署に行かされたのではないかとの噂
でした。

*今回はここまで。続きは次回に!(^^)!

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『パンダと爆買い』第3章 社会的距離 東アジアからの留学生

第3章 社会的距離
      東アジアからの留学生

 2001年夏、大連に短期留学したとき、本当に変わったなあと感慨深かった
のは、韓国人留学生がたくさん学びに来ていたことです。
 1985年秋から1年間北京に留学したときは、数多くの日本人留学生がいま
した。1983年夏の短期留学からまだそんなに経っていないのに、業者を通し
て留学した日本人が大勢いるのを見、驚きました。私自身も、1年間の留学
のときは業者を通してでした。企業の派遣留学も多かったです。商社を中心
に、メーカー、金融機関など、職種も様々。それだけ、日本では仕事での中
国語の必要度が高まっていたのでしょう。
 それに対し、80年代韓国人留学生はゼロ。国交がなかったのだから当たり
前ではありますが、今の状況と比べるとあまりにも対照的です。
 2011年3月から3年間、家族の転勤でソウルに住んでいました。そのとき、
韓国の中国語ブームを実感しました。もともと塾の多いソウルで、中国語
教室の看板をあちこちで目にしました。韓国は、日本語のできる人が少なく
ないですが、日本語よりも中国語教室のほうが目立っていましたね。ソウル
の中心部に、ハングルで「イーオルサン」と書かれた中国語教室の看板が
あって、何だろう……と考えていたら、数字の一、二、三のことでした。
ハングルでの中国語の発音表記は、すぐには理解できません。
 ソウルの書店の語学コーナーは、試験対策問題集があふれています。
ダントツは英語だけど、次は中国語ですね。中国政府公認の中国語検定・
HSK対策は、種類も豊富で、値段も日本の問題集よりずっと安かったので、
私も買いました。
 ただ、語学コーナー以外には中国関係の本はあまりなく、おそらく日本の
ほうが中国関係の情報は多いのでは? と感じました。80年代、韓国人
留学生に出会うことがなかったことを思うと、中韓は近いのに、ほとんど交流
のなかったことが、今、情報が語学やビジネスなど実用的な部分に偏り、
文化や歴史など多様な面での情報が不足しているのと関係あるかもしれま
せん。
 80年代は、朝鮮半島からの留学生というと、北朝鮮からの学生でした。
集団で、みな同じ服装で、バッジをつけて行動していました。残念ながら、
私のクラスには1人もいなかったし、授業外での接触もなかったので、交流
の経験はありません。ただ、目にするときはいつも集団で行動していたという
のが、他の国からの留学生にはあまり見られない姿だったので、30年経った
今もよく覚えています。

『パンダと爆買い』第3章 社会的距離 「国際的」イメージの転換 続き

第3章 社会的距離
      「国際的」イメージの転換 続き

 学びに来ている留学生を見、ここは中国だなあと感じたのは、社会主義の
国の人が多かったこと。クラスに、ソ連(当時)からの留学生が何人かいまし
た。みな人なつこくて、親しくなり、部屋に呼ばれて遊びに行ったこともありま
す。あるロシア人女性は、黒竜江省に近い所の出身で、中国に買い物に行く
人が多いと話していました。「中国では服をはじめとして、いろいろ売っている
から」と、うれしそうに話していたのが、中国での買い物を不便に感じていた
私には、不思議でした。
 そういえば、以前は中国人が学ぶ外国語はロシア語でした。今は英語なの
でしょうけど。英語は苦手だけど、ロシア語はわかる、という知り合いが何人
かいます。年配者だけでなく、私が2000年を過ぎてから日本の高校で教えて
いたある中国人生徒も、ロシア語はできるけれど英語は難しいと言っていて、
驚きました。その生徒は黒竜江省出身。おそらく地域性もあるのでしょう。
 東欧からの留学生もいました。最初、先生が言う「南斯拉夫」(ナンスーラー
フー)の意味がわかりませんでした。ユーゴスラビアのことでした。とても
まじめで勉強熱心な留学生で、授業中も積極的に発言していました。
 その他、特徴的だったのは、華僑、華人がいたことです。同級生には、モー
リシャスからの中国系の学生がいて、彼女とはとても親しくなりました。彼ら
は血筋としては中国人。その人の家庭環境によるので、中には中国語が全
くできない人もいますが、家庭では日常的に中国語で話す人もいます。なの
で、そういう人は、会話はとても上手。だけど、漢字がわからない。漢字を見
たら意味はわかるけれど、聞くだけだと意味がつかみにくいという日本人には、
うらやましいかぎりでした。
 同様のことは、のちに韓国で韓国語を勉強したときにもありました。アメリカ、
ブラジル、アルゼンチン、オーストラリアなどから来た韓国系の学生たちは、
ペラペラなのに、聞き取りや読解の試験は苦手。聞き取りは100%わかるの
に、問題用紙に書かれた選択肢を読むのが大変だと話していました。
 子どものころ、私が「外国」としてイメージしていた欧米の学生もいました。
寮は2人部屋だったのですが、フランス人、イタリア人などヨーロッパの学生
やアメリカ人がとっかえひっかえで何人かとルームメートになりました。その
ころの印象では、西欧やアメリカからは、長期留学生よりも、このように短期
留学生が次々とやってくる状態でした。ルームメートになった人たちの中に、
中国語が上手な人は一人もおらず、私は苦手な英語で部屋の使い方など
必要な話をするしかありませんでした。彼女たちは、中国語を学ぶというより、
安い料金で滞在し中国を楽しむ、というふうに見えました。
 寮の中だけでなく、当時は英語がよくできる中国人はあまりいなかったので、
特に地方旅行に行くと、中国人と欧米人旅行者の通訳をさせられたものです。
もちろん、そういうときは残念ながら日本語は関係ありません。やたらとボディ
ランゲージで必死になっている様子は、傍から見たら滑稽だっただろうなと
思います。
 このように、中国で日本とは違う国際的な世界を体験したことは、肌の色や
におい、食習慣、宗教などが違う人たちにあまり違和感を抱かないことや、
その後世界のどこかで何かが起きたとき、日本のニュースで流されるまま
物事を見ないなど、自分の物の見方や感じ方に大きな影響を与えてくれま
した。

『パンダと爆買い』第3章 社会的距離 「国際的」イメージの転換

第3章 社会的距離
      「国際的」イメージの転換

 「外国」といえば、どんな国が思い浮かぶか。専門学校で働いていたとき、
学生にアンケートをとったことがあります。10数年前のことなので、もう手元
にそのときの資料もないし、うろ覚えですが、書かれた国の名は、やはり
欧米が多かったです。アジアの国は、肌の色や食べ物など共通点もあるの
で、外国というイメージが強くないのかもしれませんが、あまり挙げられませ
んでした。
 私自身も、かつてはそうでした。中国に興味があったとはいえ、外国とか
国際という言葉から思い浮かぶのは、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス
……ところが、80年代中国に留学し、私のその外国へのイメージは、見事
に崩されました。
 まず、アフリカからの留学生が多いのにびっくり。日本で黒人というと、
アメリカ映画に出てくるアメリカの黒人を思い浮かべますが、中国の大学で
見た黒人は、多くがアフリカからでした。クラスメートには一人もいなかった
ものの、大学の敷地内、特に留学生食堂にいつもたくさんいて、注文の際
挟まれるようにして並んでいたので、印象が強いです。
 直接接したことがほとんどなく、詳しくは知らないのですが、アフリカからは
国費留学生が多く、まず中国語を学んだ後、中国各地の大学に進むのだ
そうです。理工系が多いと聞きました。今、中国がアフリカの国々に積極的
に進出しているというニュースを、日本でも目にしますが、何も今に始まった
ことではなく、私が留学していたころから、技術指導のようなことは行われて
いました。留学中、部屋にテレビがある人に時々テレビを見せてもらってい
て、ニュースでアフリカでの技術支援の様子を放送していたのを覚えていま
す。
 当時私にとってあまりなじみのなかった南アジアの人も多かったです。
パキスタン、バングラデシュ、スリランカ、ネパール。最初は顔が同じに見え
てしまって、なかなか彼らの出身国が正しく覚えられなかったけれど、慣れ
てきたら、少しずつ見分けがつくようになりました。たしかネパールの学生
たちだったか、朝の太極拳の練習に熱心に参加していたので、同じことに
取り組んでいるからか、親しみがわきました。パキスタンの留学生には、よく
食事をごちそうになりました。彼らの冷蔵庫には、大きな羊の肉の塊や鶏肉
が入っていました。一方、インド人留学生はいなかったので、そんなところに
も中国と仲のいい国悪い国というのも、感じました。
 中東からの留学生もいましたね。彼らのつけている香水のにおいが、教室
にしみついていたという記憶があるくらい、日本ではなじみのないにおいでし
た。香水のムスクと、香辛料が混ざったようなにおいといえばいいでしょうか。
今考えると、中国のにおいはもちろん、様々な国の学生のにおいが混じり
合っていました。においというのは、実際にその場に身を置かないとわかり
ませんから、貴重な文化体験です。

*今回はここまで。続きは次回に!(^^)!

小さな幸せ

『パンダと爆買い』2章までアップしました。
全部で7章あるので、後半部分を少し書きなおしてアップするとしても、まだ
しばらくの間続きます。
これからどうなるか、お楽しみに!(^^)!

いつの間にか、もう7月。
一年の半分以上が過ぎましたね。
6月30日には、伏見稲荷大社で茅の輪くぐりをしてきました。
夏越の祓。
輪をくぐることで、半年間の厄を祓い、残りの半年間無事に過ごせるように
と祈って。
もともと、厄除けとか厄ばらいとか、あまり信じないほうでしたが、体調不良
が続いたため、初めてしてみました。

何箇所もできる場所がある中伏見稲荷を選んだのは、わけがありました。
午前から昼過ぎにかけ、三室戸寺と平等院を訪れた関係で、平安神宮など
には行く時間がなくなってしまい、なるべく平等院から遠くないところ、という
のがひとつ。
それともうひとつ、訪れたいお店があるからでした。

だいぶ前のことになりますが、伏見稲荷周辺は、私の生活圏でした。
久しぶりに訪れたとき、以前あった八百屋さんなどがなくなり、どこにでも
ありそうな土産物屋が増加。
伏見稲荷ならではの土産物屋もがんばっているので、それはうれしいの
ですが、なじみのお店が消えてしまうというのはさみしいものです。
なじみのお店の中でも気になっていた、小さな和菓子屋さんがあります。
5月に伏見稲荷を訪れたときは閉まっていて、「あれ? やめちゃったのか
な?」と一瞬不安になったのですが、ああ定休日だった、と思い出し、
ひと安心。
次は定休日でないときに、と思っていました。

行ってみたら……ありました! 健在でした。
私がいたちょっとの間にも、お客さんが何人か来ました。
よかった(^◇^)
ちょうど大好きな水無月の時期。
久しぶりに食べた好きなお店の和菓子。おいしかったです。

京都は有名な和菓子屋さんがいくつもあり、たしかにおいしいです。
が、住んでいたとき感じたのは、全国的には知られていないけれど、
町中の小さな和菓子屋さんの和菓子、本当においしいということ。
豆腐屋さんも、そうですね。
なので、時々京都には行きますが、有名店ばかりわざわざ訪れる、という
ことはあまりしないです。

規模は決して大きくないけれど、おいしいもの、質のいいものを高くない
値段で提供してくれる。
過剰包装もしない。
そういうお店が続いていることに、小さな幸せを感じます。

たまにソウルを訪れるときも、好きで通っていたお店が続いているか、
やはり気になりますね。
それを確かめるための訪問、みたいになってしまって。
入る時間まではなくても、続いていることを確かめ、ホッとしてまた歩き
続けます。
が、たまに、なくなってしまっていることも。
昨年は、好きだったソルロンタンのお店がなくなり、違う料理のお店に
変わっていました。
そして今春は、住んでいたマンション辺りを訪れ、よく通っていた洋食店
がなくなっていたのを知りました。
旅行だけなら、まず洋食店を訪れたりはしないでしょうが、住んでいると、
おいしいピザやパスタのお店というのは、本当に貴重で、帰国してからも
思い出すものです。
落ち込みました。
そこに通っていたころの自分の気持ちとかが、なくなってしまうようで。

韓国ではお店の入れ替わりがとても激しいので、やむを得ないかも
しれませんね。
どうか、お店の人たちが、どこかで元気に働いていますように!

2017年6月30日 伏見稲荷 夏越の祓

ご案内

プロフィール

はこ

Author:はこ
2011年3月~2014年3月の3年間韓国で生活。韓国滞在中の2013年2月に「もっともっと韓国」開始、完全帰国後も大阪からしばらくの間韓国情報を中心に発信してきました。が、帰国後日本、中国語文化圏の情報が増えたこともあり、タイトルを「もっともっとアジア」にしました。より多様な内容で進めていきますので、今後ともよろしくお願いします!
拙著『不思議がいっぱい韓国』もよろしくお願いします!

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