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『パンダと爆買い』第4章 感情的距離 感情的距離を克服するには 続き

第4章 感情的距離
      感情的距離を克服するには 続き

 90年代、『ノーと言える中国』が出版されました。(原文タイトルは『中国可以
説不』)。国際的ベストセラーとなった本書は、日本でも話題となり、文庫化
されました。私の手元にも、新潮文庫の『ノーと言える中国』があります。
海外の、特にアジアの社会関係の本が文庫化されるなんて、あまりないこと
です。
 私はこの本を、原文で読みました。香港の時事週刊誌『亜洲週刊』でも大き
く取り上げられ、日本でも話題になっていたので、読まなきゃいけないと思っ
て読みました。好きか嫌いかで言えば、正直、好きな本ではありません。
でも、この本には、当時の中国人の正直な気持ちが書かれており、それを
知るにはとても参考になります。
 特に印象の強かった部分を紹介します。「第3章 中国魂の復興 3極端で
さえなければ、民族主義はやはり必要」の途中に書かれた文です。出だしは、

  もし中国の十数億の人口が、さまざまな試練を経て今の生活を手に入れ
 たことが一種の奇跡だとするなら、中国人にはもうひとつの奇跡を起こす力
 もあるはずだ。それは中国人をもっと豊かな生活へとレベルアップさせる
 ことだ。

という文で始まっています。紹介したいのは次の部分です。

  96年の春節、私は電話で友人たちに年賀の挨拶をしたが、長らく会って
 いなかった友人のひとりは電話線の向こうからひどく興奮した口調で、
 夫婦二人でツアーに参加して、これからシンガポール・マレーシア・タイを
 巡ってくるのだと、声高に話してくれた。上海市のある旅行社の支配人は、
 会うなり愚痴をこぼした。東南アジアツアーへの申し込みが満杯になるなど
 とは思わなかったので、友人のために早めに申し込み枠を確保しておくこと
 に思いいたらなかった、というのである。
  以前はよく、さまざまな皮膚の色の人々がクーラーのきいた観光バスから
 降りてきて、各地にあった大小さまざまの外国人向けの友諠商店に列をな
 して入っていくのを、中国人が好奇心と羨望の眼差しで眺めていた。あの頃
 は、服装の異なる、首にカメラをぶらさげた人々は、中国人の目には宇宙
 からの訪問者のごとく神秘的に見えたものだが、いまでは国外へと飛び出
 していく中国人たちがいる。
  しばらく前、私はかつて大学で教鞭を執っていたアメリカ人の教授と電話
 で話し、何気なく北京の「マイカー・ブーム」に触れた。このアメリカ人は感慨
 深げに、彼が中国で教えていた時代からは想像もつかないことだと言った。
 実のところ、私たちにも当時は予想がつかなかった。

 以前は中国国内で、外国人を好奇心と羨望の眼差しで眺めていたとの部分
は、私が第1、2章で書いた80年代の留学のときの光景です。中国国内で
間近に見る外国人すら、遠い存在だった。ところが豊かになってきて、自ら
出国する中国人が増えてきた。マイカーを持つ中国人も増えた。外国人との
生活レベルの距離が縮まった。だけど、まだ対等とまではいかない。それ
くらいの段階って、負けたくないという気持ちがよけいに強まる時期だったの
だな、と今90年代を振り返って思います。

この続きはまた次回に。
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『パンダと爆買い』第4章 感情的距離 感情的距離を克服するには

第4章 感情的距離
      感情的距離を克服するには

 90年代には、領土問題や歴史認識以外にも、日本人と中国人の感情的な
隔たりを感じる場面が複数ありました。
 中国人と接し、直接耳にし、目にした体験の中で、今でも特に覚えている
ことは二つあります。
 ひとつは、90年代日本に数年間留学していた中国人から感じたことです。
年齢は私と大体同じくらいの人。彼の一時帰国のとき、ちょうど私も中国に
数日間行くことにしたので、地方都市にある彼の自宅でお世話になりました。
家族も私にとてもよくしてくれて、初対面の奥さんとは二人きりでも会話が
弾みました。
 留学生とその奥さん、私の三人で話していたときのこと。日本文化と中国
文化比較のような話になり、まだ日本に行ったことのない奥さんの前で、
その留学生は、日本文化のレベルが如何に低いか、語り出したら止まらなく
なったのです。
 あまりにもたくさん並べ立てていたし、正直聞いていて気分が悪かったので、
そのうちのひとつしか覚えていません。それは、日本の歌舞伎が如何にダメ
で、中国の京劇が如何にすばらしいものかというもの。とにかく家族の前で、
低レベルの小日本と比べ、中国の文化が如何に優れているか、中国バン
ザイ! と言いたかったのでしょう。
 私は、彼が日本で嫌な目に遭っていたのも知っています。日本では腹が
立っても言えずに、ずっと心の中に溜めていたものが、一時帰国して一気に
噴き出したかのようでした。日本と中国を比べ、中国に軍配をあげることで、
スッキリしたかったのかもしれません。
 一方で、二人で路線バスに乗ったときは、やたらと日本語で話すんですよ
ね。日本では、いつも中国語で会話していたのに。さっきあんなに日本はダメ
だってさんざん悪口を言っていたのに、バスの中で大勢の乗客に聞こえる
ように日本語でしゃべるって、一体何!? 矛盾しているじゃない。
 でも、少し後になって思うに、日本に住んでみて日本の優れた面を知った
けれど、認めたくない、やはり中国がすばらしいのだ、と思いたい気持ちと、
同時に、オレは先進国日本に留学しているエリートなんだぞ、と田舎に
暮らす中国人たちに見せつけたいという複雑な気持ちが入り混じっての
言動だったかもしれません。
 もうひとつは、日本のある地方自治体の講座で。日本の大学で働くある
中国人の学者と、彼の教え子である中国人留学生数人が出席する、日中
文化交流の話し合いの場のようなものでした。
 来場者からの質問を受け付けているとき、あるおじいさんが、日本は先進
的で中国は遅れている、という前提で質問をしました。質問の具体的な内容
は覚えていないのですが、とにかく中国を下に見る内容だったのは確かです。
 といっても、おじいさんには悪気はないようで、中国にも興味があるみたい
でした。が、やはり中国人が聞くと、かなり腹が立つ内容だったようです。
その場では、中国人の学者は冷静に答えたものの、講座が終わって会場の
片付けをしているとき、大きな声で激怒していました。中国は遅れてなんか
いない! バカにするな! と。
 80年代と比べると、90年代は中国人留学生も増加。それだけ、国が豊かに
なってきていたのです。が、日本では、差別的な、不愉快な経験をした人も、
きっと少なくなかったでしょう。私自身が同じ立場でないので、日本人の私が
見聞きしたのはほんの一部でしょうし、実際にはもっといろいろ理不尽なこと、
悔しいことがいっぱいあったと思います。
 戦争で酷い目に遭わされたという被害者意識。そして、やっと戦後になった
のに、今度は憎い日本が先に経済的発展を遂げたことへの悔しさ。日本に
憧れを抱くとともに、悔しい、負けたくないという思いが、90年代は強かった
と思います。

続きは次回に。(多分、あと2回)。

法然院で開催中 韓国の書刻家・イ ヨンス氏 『好好展』

京都の法然院で、韓国の書刻家・時中 李永守(イ ヨンス)氏の展覧会
『好好展』が開かれています。
昨日始まり、9月10日日曜日までです。

2017年9月4日撮影 法然院 好好展 建物外観

2017年9月4日撮影 法然院 好好展 建物内部


ポジャギ、ヌビなど、韓国の伝統手工芸に取り組む友人たちのご縁で、
作家さんと知り合いました。
作品自体がすばらしいのはもちろんですが、そこに込められた心に
感動しました。

「더불어」(ともに) の横に書かれていた言葉―
風鈴は ひとりでは 音を出せない
風が吹いてくれてこそ 音が出るように
この世の中 何もかも ひとりで存在することはない

今回の展示にたどりついたのも、ご縁があってこそだったですし、
自分が今取り組んでいる仕事も、一緒に関わる人たちあってこそ。
作品を見、そのありがたさを改めて思いました。

「楽在其中」 には、一部抜粋すると、楽しみはひとえに私の中にあり、
ただ楽しく暮らせばいい、と書かれていました。
人間関係でちょっとしんどいなあ、と感じていて疲れ気味の私には、とても
気楽になるというか、元気を与えてくれる言葉です。
(そんなに深刻じゃないですが^_^; でも、こういう言葉に励まされるのは
うれしいですね。自分自身がもっと楽しく!)

展覧会では、奥様の作品もいくつか展示されています。
とても癒され、思わず微笑んでしまう作品です。

法然院は、哲学の道からすぐ。
銀閣寺も近いです。
私は、蹴上駅で降り、南禅寺を見てから、哲学の道をぶらぶら歩いて行き
ました。
桜の時期のようには混まないので、静かに散策するにはいいですよ。
歩いているのは、日本人より、外国人がより多いかな?

日本のお寺で韓国の作家の作品展、なかなかいい感じです。
会場内に吹いてくる風も気持ちいいです。
緑もきれい。
ぜひお出かけください!(^^)!

『パンダと爆買い』第4章 感情的距離 領土問題報道から感じたずれ 続き

第4章 感情的距離
      領土問題報道から感じたずれ 続き

 日本の報道と、中国語圏では主に香港の報道を見ていて最も感じたのは、
この問題に対する温度差というか、ずれです。先に挙げた『亜洲週刊』での
取り上げ方があまりにも激しく、怒りに満ちていたので、他の報道ではどう
なのか気になり、香港の新聞や台湾の新聞を見ました。京都の国際交流
会館で閲覧できたので、何度か通いました。新聞も週刊誌同様、感情的に、
激しく、大きく取り上げていました。
 一方、日本の報道では、取り上げてはいるものの、何だか香港の怒りの
報道を相手にしていないかのような(知っててなのか、それともよく知らなくて
なのかは不明です)、まるで他人事のような、冷めた報道でした。量的に比
べてみても、少なかったです。
 一体この落差は何なんだろう? 香港の人の怒りが大きくなればなるほど、
その怒りは無駄になるのではないか。日本人はもっと香港の人の怒りに気づ
くべきだけど、香港の人も、怒りのエネルギーをもっと日本人に響くような
上手い形で使えないものだろうか? ますます過激になる抗議デモの報道を
見ながら、答えのない問いを自分にずっとし続けていました。周囲の人にこれ
について話しても、日常的に香港の報道をチェックしている人なんていません
から、誰にも相手にされず、虚しかったです。
 国や地域が違えば、社会や文化が違いますから、報道が違ってくるのも
当然といえば当然です。他の国や地域で大きな問題でも、日本でそのまま
報道するのは、国にとって不都合な内容、という側面もあるでしょう。
 ただ、国や地域が異なるから報道が違っても仕方ない、と割り切ってしまい、
お互い近づこうとする努力を放棄するのもどうなのかなと思います。一番
いけないのは、同じ問題を取り上げるにしても、国や地域によって報道が
異なる、という自覚もないまま、新聞に書かれていることやニュースをその
まま受け入れ、それが外国のイメージとして出来上がってしまうことだと思い
ますが。私がソウルに住んでいたときも、あんな怖いところに住んでいて大丈
夫? といった心配を日本の知人からされたのも、日本での朝鮮半島関連の
報道=朝鮮半島の全て、と知らぬ間に思い込んでいる(思い込まされている)
からです。
 大事なのは、ずれを意識し、どうしてずれるのかを考えながら見ていくこと
だと思います。そのためには、外国語で直接情報をつかめなければなりませ
ん。日本では、外国語コンプレックスというか、日常的に外国語で情報を仕入
れる人が、決して多くありません。海外ニュースの翻訳版を見ればいいじゃな
いか、と言われてしまいそうですが、翻訳されたニュースの量というのは、全て
が翻訳されるわけではないので、原文のニュースと比べると少ない。私は、
自分が中国語で(プラス今は韓国語で)直接情報を仕入れるようになって感じ
るのですが、日本での外国のイメージが乏しかったりずれていたりするのは、
日本語だけで情報を得る人が圧倒的に多く、外国語でも日常的に直接ニュー
スを見る人が少ないのが原因のひとつではないでしょうか。
 80年代の留学時には、社会体制や経済格差からくる中国との隔たりを感じ
ましたが、90年代は、尖閣諸島をめぐる香港報道から、感情のずれを痛感
させられました。仲良くなるのは本当に困難なことだ、と気が遠くなるようでし
た。唯一、『亜洲週刊』に尖閣諸島問題も含め何度か投稿したとき、掲載して
もらっていたのが、「こんな状況でも日本人の意見を取り上げてくれている」と、
ひとすじの希望の光を感じました。そのかすかな希望が、今回の執筆につな
がっています。

『パンダと爆買い』第4章 感情的距離 領土問題報道から感じたずれ

第4章 感情的距離
      領土問題報道から感じたずれ

 中国語書籍を読むようになり、私のものの見方、考え方にも大きな影響が
ありました。特に、香港の時事週刊誌『亜洲週刊』の存在は、いろいろな
意味で大きかったです。
 この雑誌を購読するようになったきっかけは、専門学校の中国語講師の
職が決まったことです。ただ語学を教えるのではなく、社会事情もより詳しく
知らなければいけない。何か時事関係の読み物を読もう。それには、香港で
出されているものがいいだろう。ということで、講師の仕事が始まる少し前の
1995年12月から読み始めました。日本では、限られた書店でしか売っていな
いので、香港から郵送してもらう定期購読にしました。以降、2011年春、家族
の転勤でソウルに引っ越すまで、15年ちょっと取り続けました。
 『亜洲週刊』では、香港のみならず、日本、韓国、台湾、シンガポール、アメ
リカそしてヨーロッパや東南アジアその他世界の様々な国や地域の記者が
記事を書いています。それだけで、中国系の人は、世界の隅々にまで存在
しているんだ、と感じました。社会問題に限らず、話題の本や作家のインタ
ビューなど、日本の報道だけ見ているのでは得られない情報も多く、貴重な
情報源ともなりました。
 購読を始めた当初は、わくわく楽しみにしていました。が、じきに、心に
重りがあるような沈んだ気持ちになる記事が続きました。それは、今も日中
間の距離を遠ざける、尖閣諸島をめぐる問題です。
 1996年の夏ごろからだったでしょうか、尖閣諸島をめぐる問題で、日本を
激しく批判する記事が目立つようになりました。そして、大きなデモが続き、
記事はますます激しさを増していきました。
 もう20年も前のことですし、あまり進んで記憶したいような出来事ではない
ので、詳細はすっかり忘れてしまいました。覚えているのは、とにかく抗議
デモがすごかったことと、尖閣諸島上陸を試みた香港の活動家の一人が、
途中で亡くなったということです。
 激しい抗議デモのきっかけは、日本の資料にも出ているのですが、
「保釣運動」です。保釣運動は、中国国内の領土である釣魚台列島(日本
では尖閣諸島)を守れ、という運動のことです。資料によると、やはり香港の
活動家が亡くなっています。
 尖閣諸島をめぐる問題の詳細は、いろいろ出ていますので、ここでは
詳しくは触れないことにします。あまり詳しくない、気の重くなる領土問題に
わざわざ触れたのは、当時関連報道を見ていて痛烈に感じたことを、どう
しても書きたかったからです。

今回は、ここまで。続きはまた次回に。

ご案内

プロフィール

はこ

Author:はこ
2011年3月~2014年3月の3年間韓国で生活。韓国滞在中の2013年2月に「もっともっと韓国」開始、完全帰国後も大阪からしばらくの間韓国情報を中心に発信してきました。が、帰国後日本、中国語文化圏の情報が増えたこともあり、タイトルを「もっともっとアジア」にしました。より多様な内容で進めていきますので、今後ともよろしくお願いします!
拙著『不思議がいっぱい韓国』もよろしくお願いします!

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